昭和43年3月17日 朝の御理解     (末永信太郎)     №43-044



 最近、毎日頂いております、その御理解の方向というか、中心になるもの、自己を肯定しないでの生き方。また、否定でもないということ。これは、この、人間氏子だけのことではない。これは天地の親神様も、また同じである。ご自身を肯定なさらず、というて否定もなさらない。ね。
 今日はそこんところを皆さん、一つ分かってもらいたいと思う。人間だけじゃない。ね。お道の信心の進め方というのが、自己を肯定せないでの、その生き方、と。と同時に否定でもない、そういう在り方にこちらがならなければならないということと同時に、これは天地の親神様も、やはり同じこと。ね。
 そういうことでは、そういうことには、それは知らない。そういうおかげはやらないと、いわば言うように、決めてかかっておられる訳ではない。と言うて、人間氏子が願うことを、ああ、そうかそうかと言うて、いちいち、また下さる神様でもない。ね。否定もなさらない。そういうことじゃおかげはやらんぞ、と仰る方でもない、仰る神様でもない。ね。そこんところを私どもが分からせてもらう。ね。
 今朝の御祈念に、私はあの、佐賀の有田ですね、陶器で有名な町です。中にあの、柿右衛門という釜があります。(さかえだ)柿右衛門。もう、十三代も続いた、古い陶器屋、陶器製造をしておるところなんですね。大変、有名な陶器です。その初代と思われる、その柿右衛門が、柿右衛門を名乗ったということ。
 それは、ある秋の、まあ、黄昏時である。ね。夕日が真っ赤に焼けておる、そういう中に、庭にある(ゆうづいた)柿木に見事な色を、まあ、醸しておる、醸し出しておる。柿のあの、真っ赤に熟して熟れたその色に西日が当たっておるその色が、もう、(やも?)言われん、その、色に見えた。
 ああいう素晴らしい色を陶器の色に、(じき?)ですね、の上に、ああいう色を出せたら素晴らしかろう。それこそ、その柿の色に付かれたように、あの柿の色を自分の焼き上げる陶器、茶碗の上にも描き上げたいと言うので、色を出したいと言うので、それから一生懸命、いわば、その色に付かれたように、その一生懸命になった。そこから苦心がはじまった。
 焼いても焼いても焼き上がらない。焼いても焼いても、自分の思うような色が出ない。もう、それこそ、自分の持っておる財産の全部を使い果たすほどにして、その色に熱中したけれども、焼き上げることが出けない。ね。もう、燃料であるところの、その薪を作ってくれるところも、貸してくれる所も無くなった。自分の小屋やら家やらまで、壊してまで、その、(    )とこう、薪を探し集めて焼いた。
 そして、あの、柿の色を焼き上げる事に成功した。ね。ほれは、まあ、大変な喜びじゃったろうと、こう思いますねえ。そういうような、その情景を頂いた。柿の色に付かれたように、ね、その色を、いわゆるその、一生懸命になった。これは、私はその先の事なんですけれども、現代の、まあ、十二代、十三代は、あの、もう、ほとんど白の色ですね。いわゆる、濁してと申します。もう、その白の色に苦心をしておると言われております。柿色は完成した。そこでその、白の色。ね。白という色の深さや(とうのあきた?)というほどに、もう、白の色の深さというのは、もう限りがない。
 それを、ただの白ではなくて、濁して、ちょうどあの、米の濁しのような、ああいう色の白に一生懸命、十二代が亡くなられましたからね、今は十三代ですが。十二代が、まあ、ほとんど完成しておられる、その濁し入れっていうのは素晴らしいです。ここにも何点もありますね、あの柿右衛門の濁し(てるやつ?)。素晴らしいです。これは、私がそういうお知らせを頂いてから考えたのですけれども、願うとこは、究極のところはそこでありましてもね、私どもはその、柿の色。ね。
 ここでお知らせを頂きますと、柿は人間誰しもが持っておる欲望、誰しもが持っておる、言うなら煩悩で。ね。様々な欲がありますよ。その欲が神様、信心でもしておかげを頂こうというようなことになって来るのでございますからね。健康になりたいという欲、経済に難儀をしておるから、経済欲。ね。貧乏で食べられんから、もう、食べられさえすれば、と。ね。そういう人間の誰しもが持っておる、その欲望の、言うならお知らせの時に、あの柿のお知らせを頂きます。
 ですから、そういう、例えばですね、欲望というものが、ね、私ども、叶えられるおかげを頂かにゃいけん。ね。まあ、難儀の三大難儀と言うなら、先ず、ね、健康。経済、金銭のこと。ね。人間関係のこと。まあ、だいたい、この三つであろうと思う。ね。
 いかに金があっても、人間関係で、もう、それこそ金やらは入らんちゅうごとある。もう、金やら財産じゃなかよ、家庭の中が円満にさえ行きゃいいよと言っておる家庭が、たくさんの金を持った人の中にありますよ。もう、それこそ金の蔵は積み上げておってもですね、ね、もう、健康さえありゃ、もう、お金は入らん。もう、健康さえありゃ、と言うておる人もあります。ね。
 それとは反対に、もう、少々病気したっちゃよか。もう、ここに金さえあれば、と。もう、金金と。その金のために、健康のために、または、難しい人間関係のために、ね、人間関係のいわゆる統括、縺れ。そのことのために、もう、死ぬほどの思いをしておる人があります。
 そのために、やはり、自殺行為をする人すらがあるのですから、金がないために。ね。もう、いよいよ良くならないと医者に見放されてから、いわば、世を儚んで、もう自分の命を自分で断つという人もあります。人間関係の苦しさがです、ね、やはり、もう死んだ方がましといったような事にすらなり兼ねんほどですから、やはり、この三つの難儀がですね、一番、私は大きな難儀であると思う。
 その中でも、やはり取り分けてですね、皆のその人の、お金のある人は金なんか言わんでしょうけれどもね、金金と、こう言う。健康健康と言う。人間関係なら人間関係。
 その自分の、もう、これを、これさえ頂ければというものを、ね。ところが、だんだん教えを頂くとです、そういうおかげを下さい、お金を下さい、健康にならせて下さい。どうぞ人間関係の上におかげを下さいと言うてもです、それは、そう簡単にはやられない、信心が分からにゃというような。
 この辺のところがですね、その頂いて行かにゃいかん。ね。本当に必要ならばですよ皆さん、本当に求めるならばですよ、それこそ、柿右衛門がその柿の色一色にです、命をかけた、財産をかけた。何もいらない。それこそ、その柿の色に付かれたように、毎日が西日を受けて、光っておる柿の色を頭に描いて、柿の色柿の色、柿の色と焦点をおいて、その色に焼き上げられることを、まあ、願いとし、一生懸命になった。
 問題は、そこが必要だということなんです。ね。そこんところがね、中途半端にされたんじゃですね、おかげ頂かん。そういう、例えば、人間の三大難儀というか。ね。そういう、言うならば、我情でもあろう、我欲でもあろうけれどもです、それを頂かなければ立ち行かん、実際はそうじゃない。けれども、私どもは人間じゃから、それを思うておる。人間関係さえ良かれば、お金さえあれば。いや、もう、人間は健康でさえあれば。もう、実際はそうじゃないのだけれども、そう本当に思うならばです、思うならば、ね、それこそ、薪を求め歩かなければいけん。ね。もう、売り手もなかなきゃ、貸し手もない。それでも、やはり薪を求める続けて、その柿の色が焼き上げられたようにです。ね。
 その願いを持っても良いて。ね。だから、その持つなら、もちっと本気で持てという事なんですよ、願いを。お互いがその願いを中途半端なものにしておる。いよいよ攻められる時だけは涙流してから、はあ、これだけ、これを頂けばと言うけども、なら、それまでに、なぜもっと本気で願わんかという事なのである。
 そこんところをです、この神様はですね、そういうおかげはやらんという風に否定なさってはおられないということですよ。ね。と言うてです、それだけで良いと言うて、肯定しておられるわけでは決してないのです。ね。もっと、より良いものをそこから分からせてもやろう、分からせて、もっと与えさせてもやろう。真のおかげと、真の信心というか。ね。それが、真の信心ではなくてもです、それが真のおかげではなくてもです、氏子が切に切に願っておるというものであるなら。ね。例えば、もう、子供。ね。
 修学旅行に、まあ、行きたいと言う。ところが、家の方では学校にやらせてもらう、旅行にやらせてもらうだけのお金がない。で、今度は一つ諦めて、あんたが大人になってから、また、本当なアンタどんが自分自身が儲けだしてから行かんの、と。今はこんな状態じゃから。まあ、言うなら諦めてくれと言うて、親が子供に頼む。だから、言うなら子供も親の気持ちが分かって、そんならば、僕は行くまいと言うて、まあ、断った。ね。ところが、その心の底には、やはり皆が、さあ、修学旅行の用意がはじまる、日にちが近づいて来ると、行きたうて行きたうてたまらんものがある、心の中に。
 そういうような、行きとうて行きとうてたまらんものがです、何かの端に出て来る。心の底に求め続けておるものが、親に感じさえ分からん。はあ、本当に行きたかろう、と。行くなとは言うたばってん、これは何とかしてでもです、それこそ犠牲を払うてでもです、ね。
 その、もう行くまいと言うておる、その言うなら意地らしいその姿を見てから、親がです、何とかそれこそ物を質へ置いてでも、旅費をつくってやらせてやろうという事になって来る。ね。それは実際、後から考えてみると、修学旅行なんて大したこっじゃないのですよね、大人になってみて考えてみると。ね。けれども、やはり、その子供にとっては修学旅行は、もう、それこそ行きとうて行きとうてたまらないという、例えば、いうものである。それを、やれないのだけれども、親がやりたい。
 これは、もう行くなち言うたけれども、何とかしてやらしてやりたいという親心が動いて、親は犠牲を払うてからでも、そのおかげを、その子供の思いを達成させてやろうと勤めます。それは本当だったら、実を言うたら、大人からみては、または、自分が大人になってみたらです、修学旅行に行ったぐらいなことなんかは、大したこっじゃないのですけれども、切に切に願うということ。
 私どもの心の底にです、はあ、こういうことは願われんというのじゃなくて。ね。願わんでも、やっぱここにあるなら、出した方がいいじゃない。ね。本当に、ここにおかげが頂きたい。ね。健康のおかげを頂きたい、金銭のおくり合わせを頂きたい。そんなら、もちっと切に切に、親が見とって、ね、見ちゃおられんくらいに、切になぜに求めないかということ。ね。地団太もんで、それを下さいと言やあですね、親はかえって、もう、そげん分からんことばっかり言うちから、家が今、困っとることは分かっとろうが、というのですけれども。ね。一応はそこんところを、例えば、ね、なら日頃の教えを、おかげを、おかげおかげと、おかげばっかりを求めちゃならん。ね。信心を分からにゃと言われるから、そこの、本気でそこんところの信心をです、いわゆる、薪を求め続けにゃいかん。ね。真心を、薪とは真心と、こう頂かにゃいくまい。
 ね。その真心をも現さず、一生懸命にもならず、そして、こういう、例えば自分の、なら、我情我欲というものを満たして欲しいといったようなことで、本当なおかげになるはずがない。ね。本当にそれが願いとするならばです、ね、その願いそのものが、それは立派な願いではない。ね。それは、柿の色のようなものかも知れない。ね。けれども、それを私どもが一生懸命に、例えば、ね、ああでもなかろうか、こうでもなかろうか、と。ポイントが少しは焦点が違うておってもです、真心とは真心とは、修行とは修行とは、一生懸命とは一生懸命とは、という風にです、一生懸命を現して行くその姿。
 真心の限りと思われるその真心を現して行く。その、願うそのことはです、ね、少しはポイントを外れた願いであってもです、ね。お前達は金金と言ってるけれども、金だけじゃない、なら、金を今与えたからと言うて、不健康になったらどうするか。家庭が不和になったらどうするか。ね。
 あれもこれも成就して行くために、信心を頂かなん。信心が分からなきゃおかげはやらんと仰る神様ではなくてです、その願いも、やはり叶えて下さる。と言うて、それがですね、神様がそんな喜んで下さるのじゃない。場合によっては神様が、神様ご自体が犠牲を払うてでも下さるおかげなんだ。ね。
 しかし、そういうおかげでも頂かなければです、私どもは立ち行かんと思うておるなら、んなら、まちっと一生懸命になぜならんかということ。ね。例えば、私どもがおかげを頂いてから、まあ、そうですね、まあ、色んな意味でおかげを頂いた。人間関係の上にも、まあ、経済の上にも、健康の上にも、ね、不自由のないだけにおかげを頂いておる。ね。
 なら、それまでには、私がどういう信心をさせてもらったか。心の底にです、やっぱりお金が、それこそ、本当に借金で叩いて叩いて叩き抜かれる時にはです、もう、ここに本当にお金がこれだけあったらばと、こう思う。だから、口では言わんでも、心の底から、もう、絶叫するほどにお金が欲しいと思いよる。
 ね、その時分に思いよったことの中にです、ね、私が例えばお参りの途中にでもです、ここに五万円のお金が落ちとったら、おそらく、これは神様が自分に下さったと言うてから、借金払いの方に回したじゃろうて、私が思いました。今から考えてみると、大それたことですけれど。ね。
 そのくらいに、やはり、金金金と、金に付かれたように金のことばっかりを思い続けておる。ね。その金が欲しいから、だから、私が、よし金を頂いた時にです、もう、金輪際この金を無駄に使うことは致しませんということが神様に誓われてある。ね。
 自分の例えば楽をするために、自分があれが欲しいからと言うてです、そこに私どもがです、夫婦で布一寸買いません、下駄一足買いません。自分で、自分から楽をしようとなどとは、もう、夢思いませんというような一生懸命が、薪が現してある。それが薪なんです。それが、本当の心なんだ。それが神様を揺り動かした。あなた方の願いはどうですか、ちょこっとばっかり金が入ってくると、もう、調度品が立派になる。着物が良う美しゅうなる。そして、また神様に願わんならん。そうでしょうが。
 そういうことで、おかげを下さるはずはないですよ。願いも足らん、神様へ対するところの、ね、薪も足らん。本当に金さえあれば、本当に金金。実際は金というのは、神様がです、金だけじゃないと言われても、そこんところを神様はですね、否定をなさらないわけです。
 私どもが金金金、柿の色、柿の色、柿の色と、柿の色に付かれたように柿右衛門が柿の色を出して行くことに一生懸命になって、もう、家も蔵も財産も無くなって、もう薪を売ってくれるところも無くなった。そこに、家でも崩してから、その釜に薪代わりに(くべた?)ようにですね、その薪が必要なのだ。
 そこに、柿の色が焼きあがる。人間の、私どもの心底にある一つの欲望というものが成就した。ね。皆さんがですね、本当にあの、本当に苦しいならです、ね、本当に私は、ね、その願っておることはですよ、言うならポイント違い。ね、焦点違い。ね。神様は、ね、例えば修学旅行と同じこと。大したことないけれども、やっぱり修学旅行に行きたい行きたいという心があるならです、ね、親の心を動かすような信心せにゃいかんです。ね、そこには、親が犠牲を払うてでも、旅費を作ってくれるようなもんです。ね。
 親の心を動かすということは、どういうことか。ね。ここにこれがあるならばと、そのかわりに、神様は頂いたならばです、もう、金輪際、これをお粗末にするようなことは致しません。もう、金銭なら金銭の難儀というのは、もうこりごり。これを頂いたが最後です、金輪際、無駄遣いどんするようなことは致しませんというようなですね、薪が神様に捧げられて、私は本当のその願いが成就するのだと、私は確信しておる。ね。皆さん、本気でですね、本気で本当に苦しいのならです、だからですね、けっきょく、薪も現さないわけですよ、みんなが。薪も捜し求めないわけです。だから、あれは本気で言いよるとじゃなかっじゃろうぐらいなことです。ね。神様がそれに犠牲を払うてからでもやろうという気持ちなさらんわけです。ね。
 本当に家族勢をそろえて、本気でこのことを願おう、と。そのかわりに、この願いが成就した暁にはです、ね、神様が安心して下さるような薪をそこに並べなければ。薪を限りなく使わなければ。ね。私は、そこんところをですね、頂かせてもろうて初めて、その、例えば、その願いが神様の願いとされるような願いではない願いでもです、成就するおかげになる。ね。
 そういうところから、いよいよ、神様が分かってきて。いわば、柿の色から、私は今日、そのお知らせを頂いて感じた。次には、本当に白の色。この白の色こそがです、ね、それこそ、白という色の深さやである。いよいよ深い、味わいのある、神様の願いが私どもの上に現れてくる。神の願いと私どもの願いが、本当を言うたら一つになった願いでなからなければ、本当なことじゃない。
 けれども、私どもは、まだ神様の願いというようなものが良うわからん。そこで、私どもの願いだけを一生懸命持って行くけども、私どもの願いを一生懸命持って行くなら持って行くほど、もちっと真剣になれよということです。まちっと切実に願えということです。もちっと薪を現せということです。ね。そして、最近言われておるですね、信心は親に孝行するも同じことぞやといったような信心がです、出来るための一つの前提ともなるための信心。神様を確信させて頂くための信心。ね。
 神様にばかり犠牲を払わした。ね。これからは、神様のために本気でいわば犠牲にならせてでも頂こうという、いわゆるご用精神。ね。そういうようなものがです、育ってくる。そこに、私は白の色も求め続けさせて頂けれる、本当の親孝行の信心というのは、その先に頂けるんだということを思います。
 私どもが教祖の活き方、在られ方というのが、どこまでも自己を肯定しないでの生き方をなさった。と言うて、否定もなされなかった。私どもの信心生活の上にも、それがやはり現されて行かなければならん。と同時に天地の親神様もまたです、肯定もなさらず、否定もなされない。ね。
 そげな我情我欲のおかげはやらん、と仰るのじゃない。と言うて、それで良いぞと肯定なさるわけでもない。否定もなされない、肯定もなされない。そういう性質な神様であるから、願わにゃ損でしょう皆さん。
本当に自分が求めておるなら、本当に願っておるなら、そんなら、その願いを願いとして本当にです、願わにゃいけん。ね。そして、おかげを頂いて行かなければならない。ね。
 神様がです、そういう、例えば切実な願いを一生懸命に薪を現して行くならです、神様が犠牲を払うてでも、必ず皆さんの願いを聞き入れて下さるのです。ね。そして、もう、以前に頂きました御理解ですね。願った通りになるおかげは、本当なおかげじゃない。ね。願っても願っても、右と願っても左になる、左と願っても右になる。そういう時にはです、言うなら神の願いが成就しておる時と悟れと、こう仰る。そして、その次にです、夢にも思わなかったおかげというおかげが現われるおかげこそが、真のおかげじゃ、と。
 ね、そういうような、例えば、その信心を分からせて頂いて。ね。そして、今日の御理解をまた改めて頂かせてもらう。ただ、朝参りをして、お願いしよるのだけじゃいかん。ね。それが、もっともっと切実なものにならにゃいかん。ね。そして、焼いても焼いても焼き上がらないその柿色をです、ね、ために、もう、それで中断するようなことなく、もう、徹底してひとつ、薪を、ね、こうでもなかろうか、ああでもなかろうかというところに、信心の共励が値打ちがある。薪を求め続けなきゃいけん。ね。薪を現して行かなきゃいけない。そして、神様が感動なさる。いや、感動なさるというか、神様が、もう、間違いなかろう、と。これが願っとる願いは本当なことじゃないのだけれど。ね。こう言うて一生懸命願っておる。なら、これにやってもです、ね、もう、それで怪我するようなことなかろう、と。ね。子供が、ね、ちゃんちゃんばらばらするために刀が欲しいと言う。刀を買うて来てくれと言うけれども、なかなか、親は刀を買うて来てやらん。買うて来てやったところで、あの、おもちゃの刀ぐらいなもんじゃ。ね。そういう、例えば、おかげで甘んじず、本当に真剣が欲しいならです、ね、本当の刀が欲しいならです、その刀でです、人を怪我させたり、自分が怪我をするようなことにでもならない、一つの確信というかね。金なら金を頂いて、その金によっておかげを落とすようなことのない私どもにならせて頂くという、そこの見極めがついた時にしか、私は与えられないと思うです。金そのものが、神様の願いならおかげじゃないけれどですよ、実際。ね。けれども、本当に金が欲しいなら、頂いてもその金で怪我するようなことは致しません、人を怪我させるようなことは致しませんというようなものが出けてこそ、私は本当なおかげを受けられると思うですよね。どうぞ。